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ミイラ取りがミイラに [親鸞最晩年の和讃を読む(その72)]

(10)ミイラ取りがミイラに

 仏智を信じることと罪福を信じることのコントラストを見てきました。仏智を信じることは罪福を信じないことであり、罪福を信じることは仏智を信じないことです。その上で、ここでもうひとつ考えておかなければならないのは、上の二つの和讃は罪福を信じて仏智を疑えば辺地懈慢(方便化土)にとどまると詠っていることです。少し先の和讃ではそれがもっとはっきり詠われています。

 自力諸善のひとはみな
  仏智の不思議をうたがへば
  自業自得1の道理にて
  七宝の獄2にぞいりにける(67)

 注1 みずからの業により、みずからその果を受けること。
 注2 七宝で飾られた牢獄で、方便化土のこと。

 仏智を疑うことにより自業自得で方便化土に生まれるというのですが、これはそのまま聞き捨てるわけにはいきません。仏智を疑う(罪福を信じる)ことが因となって、方便化土に生まれるという果が生じるという言い方は、まさしく因果の図式そのものであり、その図式にからめとられることから罪福を信じることになると言われてきたのではないでしょうか。「罪福を信じることは仏智を疑うことです」と誡めてきたのに、「仏智を疑うと七宝の牢獄行きですよ」と言うのでは、ミイラ取りがミイラになったということにならないでしょうか。
 そんなことをしていたら地獄に堕ちますよ、というのは耳になじんだ言い回しで、これこそ罪福を信じる因果の図式です。この図式の本質は、そこから生きる上で役に立つ実践的教訓を引き出すことにあります。いまの場合、「仏智を疑うと七宝の牢獄行きです」ということから、「七宝の牢獄に往かないようにするには、仏智を信じなければなりません」という結論を導くことに意味があるわけです。このように「しなければならない」が顔を出したときには、その裏にかならず罪福の信が潜んでいます。そして罪福の信は自力の心から生まれてきます。

タグ:親鸞を読む
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