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七宝の牢獄 [親鸞最晩年の和讃を読む(その73)]

(11)七宝の牢獄

 ではこの和讃はどう読むべきでしょうか。そのまま読んでしまうと罪福の信になってしまいますが、親鸞がミイラ取りに行ってミイラになったとは考えられませんから、別の読み方をしなければなりません。自業自得という文言がネックとなっていることは明らかでしょう。これは通常、自分のしたことが後に自分の身にはね返ってくるという意味で使われ、まさしく因果の図式にのっとっていますが、これを、自分のすることはそのまま自分の身に反映されると受けとることもできます。
 例えば(これは金子大栄氏から借りたものです)、「人に親切をすれば幸せになる」ということばは二通りに解することができます。一つは「人に親切をしておけば、後に自分の身にいいこととなって返ってくる」という意味で、これが普通の受けとり方でしょう。この受けとり方は「幸せになろうと思ったら、人に親切なことを積極的にするべきだ」を結論として予想しています。しかし、このことばを「人に親切なことをすることは、そのままで他のものでは代えることのできない喜びである」と受けとることもできます。
 さて「仏智を疑えば七宝の牢獄行きです」ということばについても同じことが言えます。ひとつの解釈は「仏智を疑うようなことがあれば、後に七宝の牢獄に入れられることになります」ということで、そこから「七宝の牢獄に入りなくなければ、仏智を疑ってはなりません」という結論が導かれます。しかしこれを「仏智を疑うということは、七宝の牢獄に入っているということに他なりません」と受けとることもできます。親鸞の解釈がこちらであることは言うまでもありません。
 七宝の牢獄は、これから先に入るところではありません、仏智を疑っている人が、まさに今いるところです。本人は自分がまさか牢獄にいるとは思いもしていませんが、気づかないままその中に囚われているのです。そして囚われている事実に気づいたときには、もう囚われから抜け出ています。その気づきは仏智からやってきますが、それが仏智を信ずるということ、仏智に目覚めるということです。

                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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