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仏智を信じるとは [親鸞最晩年の和讃を読む(その75)]

(2)仏智を信じるとは

 仏智を信じると言い、罪福を信じると言って、どちらも同じ「信じる」という言い方をしますが、この二つの「信じる」はまったく異なります。まず罪福を信じるから行きますと、こちらの「信じる」は分かりやすい。われらが普段なにかを信じるというときの「信じる」と同じですから。「ぼくはきみの言うことを信じる」と言うときは、「きみの言うこと」に太鼓判を押すということです。同じように、罪福を信じるというのは、「善いことをすれば、善い結果が待っている」のは確かだと請け合うという意味で、「わたし」が罪福に信を与えるということです。
 それに対して仏智を信じるというときの「信じる」はまったく異なります。「わたし」が仏智は確かだと請け合って信を与えるなどということではなく、むしろ逆に、仏智が「わたし」を請け合って信を与えてくれるのです。
 先回お話しましたように、人知はわれらの側から世界に持ち込むものでした。われらは人知により混沌とした世界にさまざまな秩序を与えて、そのなかでうまく生きていけるように取り計らっているのです。そのようにして「どう生きる?」という問いに対する適切な答えを与えるのが人知です。ところがこの人知は「なぜ生きる?」という問いにはまったくお手上げです。「おまえは生きていていいのか」という問いかけには何と答えていいか分からない。そのとき仏智が登場して(実を言いますと、この問いかけ自体が仏智からやってくるのですが)、「そのまま生きていていい」という答えを与えてくれます。そのようにして仏智は「わたし」が生きることを請け合ってくれ、「わたし」に信を与えてくれるのです。
 人知は「わたし」が与えますが、仏智は「わたし」に与えられるというように、人知と仏智はベクトルが真逆です。さてここで注意が必要なのは、人知と仏智は真逆でありながら、この二つは二つにして一つであるということです。人知だけがあって仏智がないということも、仏智だけがあって人知がないということもありません。人知のあるところ仏智があり、仏智があるところ人知があります。どういうことか。

タグ:親鸞を読む
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