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胎生ということ [親鸞最晩年の和讃を読む(その79)]

(6)胎生ということ

 次に仏智疑惑と胎生の関係について。

 仏智疑惑のつみゆゑに
  五百歳まで牢獄に
  かたくいましめおはします
  これを胎生とときたまふ(77)

 注 浄土に忽然と生まれる化生に対することば。仏智を疑い自力で念仏するものは、浄土に生まれはしても、500年もの長きにわたって、母胎のなかにいるように仏とあうことも法を聞くこともできないという。

 仏智に気づかない(仏智を疑う)ということは、母胎(あるいは牢獄)のなかに閉ざされているようなものだと詠われます。これを「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」ということばで言い換えますと、「ほとけのいのち」に気づきませんと、いつまでも「わたしのいのち」に閉ざされたままということです。「わたしのいのち」は、そのままで「ほとけのいのち」であるにもかかわらず、それに気づくことなく、ただひたすら「わたしのいのち」を生きていると思い込む。これが「わたしのいのち」に囚われている姿です。
 「わたしのいのち」に囚われて生きているものに呼びかけることばとして、突然ですが、イエスのことばが蘇ります。「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養いたまふ。…野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装(よそほひ)この花の一つにもしかざりき。…この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん、一日の苦労は一日にて足れり」(「マタイ伝」第6章)。イエスのことばとして伝えられているもので、いちばん気にいっているものは何かと言われたら、ぼくは迷うことなくこれを上げたいと思います。
 キリスト教と仏教とはまったく違う顔つきをしていますが、底ではひとつにつながっていることを実感させてくれることばではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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