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明日を思い煩う [親鸞最晩年の和讃を読む(その80)]

(7)明日を思い煩う

 「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きているというのに、同じことですが、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされているというのに、われらは愚かにも自分で「わたしのいのち」を生きていると思い込んでいます。このように「わたしのいのち」に囚われているものは、宿命として「明日を思い煩う」ことになります。「わたし」の裁量で「わたしのいのち」を生きながらえさせなければなりませんから、いつも頭から離れないのは「明日」のことです。
 辛かった教師時代のことを思い出します。
 荒れた学校だとは聞かされていましたが、赴任した当日から現実の無惨な荒れように驚かされることになりました。そして哀れにもぼくの教師としてのプライドは粉みじんに砕かれてしまいました。学校からの帰路、やれやれ一日が終わったと安堵する間もなく、もう明日のことを思い煩っています。「明日もまたこの修羅場をくぐることになるのだろうか」と深いため息をついているのです。ふと夕空を飛ぶ鳥たちを見上げますと、彼らは今日一日に充足しているように思え、憶良ではありませんが、「飛びたちかねつ鳥にしあらねば」と嘆息せざるをえませんでした。あのころ「わたしのいのち」を持て余して、かなり危険な状況にあったと言わなければなりません。
 「わたしのいのち」は「わたし」の裁量で何とかしなければともがき苦しみながら、しかし何ともならず空転していたのです。
 しかし、われらも空の鳥や野の百合と同じように、「わたしのいのち」を生きながら、そのままで「ほとけのいのち」を生きていると気づくことができたらどうでしょう。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のはからいで生かされているとすれば、「明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん」となるのではないでしょうか。もちろん、「ほとけのいのち」に生かされているとはいえ、「わたしのいのち」を生きているのですから、明日のことを考えなくていいわけではありません。ただ、明日のことを思いあぐね、焦りのなかで空転することがなくなるということです。「ほとけのいのち」にささえられつつ、明日の「わたしいのち」を静かに思いはからうことができるということです。
 そして最終的には「なるようにしかならぬ」というところにどっしりと腰を落ち着けるということです。

タグ:親鸞を読む
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