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仏智うたがふつみふかし [親鸞最晩年の和讃を読む(その81)]

(8)仏智うたがふつみふかし

 誡疑讃の結びの一首です。

 仏智うたがふつみふかし
  この心おもひしるならば
  くゆるこころをむねとして
  仏智の不思議をたのむべし(82)

 これまで一貫して「仏智うたがふつみ」の深いことが詠われてきました。そこで最後に考えたいのは、「仏智うたがふつみ」が深いことは、すでに仏智に気づいている人(本願を信じている人)には当たり前でも、まだ気づいていない人には、「そんなことを言われても」となるという問題です。そもそも仏智なるものに気づいていないのですから、それが罪だと言われても「何のこと?」としかなりません。ここにはどうしようもないすれ違いがあるということ、このことについて思いを廻らしたいのです。
 すでに仏智に気づいた人と、まだ気づいていない人とはどこまでも平行線で、その間に橋を架けることはできないのでしょうか。そんなことはありません。これまでも何度か登場してもらいましたカントがしようとしたのは実はそのことで、彼は知と信の間に橋をかけようとしたのです。カントが「わたしは信仰に場所をあけるために知識に限界をもうけなければならなかった」と言うのは、人知の領域と仏智の領域(カントはキリスト教徒ですから信仰の領域ということになりますが)をきちんと区別することで、無益な対立を避けようということです。
 彼が『純粋理性批判』でやろうとしたのは、人知の領域に限界をもうけることでした。彼の言う批判(Kritik)とは「限界を画す」という意味で、人間の理性はどこまでも羽根を広げようとするものですから、そのマキシマムを明示して、そこから先に行こうとすると形而上学的妄想になってしまうことを言おうとしたのです。二律背反(Antinomie)とはそのことで、たとえば「世界に始まりがあるか」という問いに答えようとしますと、「ある」という答えも「ない」という答えも誤りとなり、そのような問い自体が理性の限界外にあると言うのです。

タグ:親鸞を読む
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