SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その82) ブログトップ

形而上学的な問い [親鸞最晩年の和讃を読む(その82)]

(9)形而上学的な問い

 釈迦も青年マールンクヤの形而上学的問い(人は死んでからも存在するか、など)に対して「無記(答えない)」という姿勢を貫きました。釈迦が答えないのは、そのような問いは、いま毒矢に射られて苦しんでいる現実からどう救われるかという実践的な課題に対して何の意味もないからでした。カントの場合は、そのような問いは理性の限界を超えているから答えようにも答えられないのです。そして理性の限界を超えているというのは、われらの経験の外にあるということで、世界に始まりがあるかどうか、人は死んでからも存在するかどうかなどということは、われらの経験の領域の外にあります。
 前にお話したことと重なりますが、要点だけ言いますと、われらが経験によりものごとを認識するというのは、そのために必要なさまざまな図式を世界に持ち込み、それにもとづいて世界を秩序づけしているということだとカントは考えました。時間や空間というのはなかでももっとも基本となる図式で、われらの認識はこの図式にのっとることによりはじめて可能になるというのです。世界に時間や空間の図式がそなわっているのではなく、われらが時間や空間という特殊な眼鏡をかけて世界を見ているということです。この眼鏡をかけることによりはじめて世界が見えるのです。
 さてそうしますと、われらがこうした図式を持ち込む前の生の世界、あるいは特殊な眼鏡越しではない世界そのもの(カントはこれを物自体とよびます)は、われらの知の領域の外にあることになります。われらの知は、くどいようですが、こうした図式、特殊な眼鏡を通してはじめて可能になるのですから、それを外した世界そのものがどうなっているか知る由もありません。知る由もないことを、ああでもない、こうでもないと無駄な議論をくり返しているのが形而上学であるとカントは喝破しました。「語りえぬことについては沈黙しなければならない」(ヴィドゲンシュタイン『論理哲学論考』)のです。
 しかし、これで話は終わりではありません。われらが知りうる、したがって語りうる世界はごくわずかでしかなく、知りえぬ、したがって語りえぬ広大無限な世界が残っていますが、その世界はわれらに縁がないのでしょうか。とんでもありません、「わたしは信仰に場所をあけるために知識に限界をもうけなければならなかった」のです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その82) ブログトップ