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世間虚仮、唯仏是真 [親鸞最晩年の和讃を読む(その86)]

(3)世間虚仮、唯仏是真

 このことばからすぐさま連想されるのが『歎異抄』後序のあのことばです。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」。両者はあまりにもピッタリと重なり、親鸞がこのように言うとき、彼の頭に聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」が響いていたのに違いないと思わせられます。誰もかれも、これは善であり、あれは悪であると、したり顔に言いあい、われは善人なりという面をしているが、何を隠そう、言っていること、していることみな「そらごとたはごと」ではないかというのです。いかにも正しいことを言い、いかにも善いことをしているように見せても、その下に隠れているのは己の名聞利養ではないか、と。
 スピノザの有無を言わさぬことばが蘇ります、「われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである」(『エチカ』第3部)。われらはわれらに都合のいいような善悪の秩序を世界に持ち込んでいるだけだということです。かくして、「世間は虚仮」であり、「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと」であることには、もう否定しようのない真実があると言わなければなりません。
 さて、少し前のことですが、親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなし」と述べているとお話しましたときに、ある方からすかさず質問の手が上がりました。親鸞がそう言っているとしますと、その親鸞のことばもまた「そらごとたはごと」ということにはなりませんか、と。まったくもっておっしゃる通りで、ぼくはその方の感覚の鋭さに感嘆せざるを得ませんでした。「みなもてそらごとたはごと」だとすると、そのように言うこと自身が「そらごとたはごと」ではないか、という疑問です。ここには「機の深信」についての深い洞察があります。

タグ:親鸞を読む
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