SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その88) ブログトップ

多々(たた)のごとく、阿摩(あま)のごとく [親鸞最晩年の和讃を読む(その88)]

(5)多々(たた)のごとく、阿摩(あま)のごとく

 聖徳太子は「世間虚仮」にすぐつづいて「唯仏是真」と言い、親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと」にすぐつづいて「ただ念仏のみまことにおはします」と言います。これらのことばからは、ともすれば火宅無常の世間を忌避して、ただひたすら後生を祈るというイメージを懐きがちではないでしょうか。この世を生きることには何の意味もないから、この世をおさらばした後の世にすべてを託そうという姿勢。「厭離穢土、欣求浄土」ということばからはそのような匂いが立ち込めてきます。
 しかし、もし仏教がこのような厭世主義でしたら、太子が仏教に国の大本をおこうとしたことが理解できません。太子が「世間虚仮」と言うのは、虚仮である世間から目を背けて生きよというのではなく、世間はみなもて虚仮であると気づいているからこそ、その虚仮の世間を一所懸命に生きることができるのだ、と言っているに違いありません。しかし、世間を生きることはしょせん虚仮であると思いながら、どうしてその虚仮の世間を一所懸命に生きることができるのか。次の和讃がその要諦を教えてくれます。

 救世観音大菩薩
  聖徳皇と示現して
  多々1のごとくすてずして
  阿摩2のごとくにそひたまふ(84)

 注1 サンスクリット「タータ」の音写。父のこと。
 注2 同じく「アンバー」の音写。母のこと。

 救世観音菩薩は父として母として常に寄り添っていてくださるから、この虚仮の世間にも、そらごとたはごとの自分にも絶望することなく、虚仮の中を、そらごとたはごとの中を一所懸命に生きていくことができるということです。それにしてもこの「多々のごとく」「阿摩のごとく」という響きの心地よさはどうでしょう。父や母のようにいつも見護っていてもらえることの有り難さが五臓六腑に沁み渡ります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その88) ブログトップ