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阿摩のごとくにそひたまふ [親鸞最晩年の和讃を読む(その89)]

(6)阿摩のごとくにそひたまふ

 ここであらためて「世間虚仮」と「唯仏是真」の関係を考えてみましょう。親鸞のことばでは「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと」と「ただ念仏のみまことにおはします」の関係。われらはともすると、こちらに「虚仮の世間」が、そしてあちらに「真(まこと)の仏の世界」があると考えてしまいがちです。そこから、すぐ上で見ましたように、今生では「虚仮の世間」をひたすら耐えて、来生の「真の仏の世界」を待ち望むという構図になります。しかしそのように「虚仮の世間」と「真の仏の世界」が別々でしたら、どうして阿弥陀仏の左脇士である観音菩薩が「阿摩のごとくにそひたまふ」ことが可能になるでしょうか。いつも観音菩薩が寄り添ってくださるからには、この「虚仮の世間」のただなかに「真の仏の世界」がなければなりません。
 しかしそんなことが如何にして可能か。ここが「虚仮の世間」であるとすれば「真の仏の世界」ではないということですし、ここが「真の仏の世界」であるとすれば「虚仮の世間」でないということです。どのようにして「虚仮の世間」でありつつ、そのままで「真の仏の世界」であるなどということがありうるのでしょう。もし「虚仮の世間」と「真の仏の世界」がそれぞれ実際の世界としてどこかに存在するのでしたら、これはどうしようもない矛盾です。しかしそんな世界が実体としてあるわけではなく、どちらも気づきとして存在するだけです。この世界を「虚仮の世間」と気づいたときに、はじめて「虚仮の世間」が姿をあらわし、またこの世界を「真の仏の世界」と気づいたときに、そこに「真の仏の世界」が姿を見せるのです。
 「虚仮の世間」は機の深信として存在し、「真の仏の世界」は法の深信として存在するということです。そして機の深信と法の深信はひとつで、機の深信のあるところかならず法の深信があります。「虚仮の世間」の気づきにあるところには、かならず「真の仏の世界」の気づきがあるということです。だからこそ観音菩薩は「阿摩のごとくにそひたまふ」と言えるのです。

タグ:親鸞を読む
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