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気づいてはじめて存在する [親鸞最晩年の和讃を読む(その90)]

(7)気づいてはじめて存在する

 「そらごとたはごと」の世間も、「まことにておはします」仏の世界も、ただ気づきにおいてのみ存在すると言ってきましたが、そこに疑念を持たれるかもしれません。気づきということばにつきまとう曖昧さ、危うさから、それと存在とが結び付けられることに危惧の念を抱くことになるのです。ものが存在するというのは、それに気づくかどうかということとは関係がないのではないか、と。妻はぼくのブログについて、「信心は気づきだと言うけど、気づきなんてどこにも証拠がないじゃない」という感想をもらしますが、妻も気づきの曖昧さに不審を抱いているのです。
 しかし、たとえば痛みはどうでしょう。ぼくは左膝に古傷を抱えていて、突如、まさに突如としか言いようがないのですが、何の前触れもなくズキンと痛みます。直前までごく普通に歩いていますから、傍にいる人は、突然「イテ!」と顔を歪めて立ち止まるぼくを不思議そうに見ます。「どうしたの」という問いに、「いや、古傷が痛んで」と答えますが、それで分かってもらえたという感触はありません。この痛みには証拠がないのです。でも間違いなく存在します。ぼくにしか分からなくても、確かに存在するのです。証拠がなくても確かに存在するものはあるのです。それが気づきというものです。
 さていまは「阿摩のごとくにそひたまふ」という気づきです。この気づきによってはじめて「そひたまふ」という事実が存在します。反論があるでしょう。親のこころ子知らず、というように、子に気づかれなくても親の子を思うこころは存在するのではないか、と。親は子に寄り添っているのに、子はちっともそれに気づかないという悲しいすれ違い。しかし、親がいくら寄り添っているつもりになっていても、子がそれに気づかないとすれば、それは親の独りよがりにすぎず、やはり寄り添いの事実は存在しないと言わなければなりません。それは子の気づきにおいてはじめて存在するのです。
 本願は信心(気づき)においてはじめて存在します。本願は十劫の昔に成就したと言われますが、あにはからんや、それぞれの信心において、そのつど成就するのです。

タグ:親鸞を読む
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