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気づきに縁って [親鸞最晩年の和讃を読む(その92)]

(9)気づきに縁って

 「気づかれる前からレモンは部屋にあった」と言うあなたにお尋ねしたい、どういう根拠でそう言えるのでしょう。そう断言できるということは、あなたは部屋にいてレモンがあることに気づいていたとしか考えられませんが、とすればレモンはあなたに気づかれてはじめて存在するのだということになります。やはりレモンは気づかれることに縁って存在するようになるのではないでしょうか。そしてあなたがレモンの存在に気づいたとき、レモンはそのとき忽然と存在するようになったのではなく、気づくより前から部屋にあったと思うに違いありません。しかし、気づくより前からあったから、気づいたのではありません。気づいたから、気づくより前からあったと思うのです。
 釈迦は「これあるに縁りてかれあり」と言いましたが、それは「かれあるに縁りてこれあり」でもあることを忘れることはできません。この縁起の法をレモンとその気づきの関係に当てはめますと、レモンがあることに縁ってレモンの気づきがありますが、同時に、レモンの気づきがあることに縁ってレモンがあるとなります。ぼくらはともすると前者だけを切り取ってよしとしてしまいますが、それではいわゆる原因・結果の法則となり、レモンの存在という原因があって、しかる後にそれに気づくという結果がおこるとなってしまいます。そうではなく、レモンの存在とレモンの気づきは互いに支え合う関係にあるというのが縁起の法です。
 ぼくらがレモンに気づくことができるのは、自分で気づこうとしてではありません。その気づきはレモンからもたらされます。レモンがあることに縁ってレモンに気づくことができるのです。しかし同時に、レモンが存在するのは、ぼくらがレモンの存在に気づくことに縁ってであるということ、これを忘れないようにしたいものです。もう一首読んでおきましょう。

 無始よりこのかたこの世まで
  聖徳皇のあはれみに
  多々のごとくにそひたまひ
  阿摩のごとくにおはします(85)

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