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無始よりこのかたこの世まで [親鸞最晩年の和讃を読む(その93)]

(10)無始よりこのかたこの世まで

 この和讃で、観音菩薩に多々のごとく、阿摩のごとくに寄り添ってもらえるのは「無始よりこのかたこの世まで」だと詠われます。
 先ほどこういいました、レモンに気づいたとき、それはそのとき忽然と存在するようになったとは思わず、前から部屋にあったと思うと。レモンは前からずっとあったのに、どういうわけか、これまではまったく気づかなかったのだと思います。同じように、観音菩薩が多々のごとく、阿摩のごとくに寄り添ってくださっていると気づいたとき、その寄り添いはそのとき忽然と始まったわけではなく、「無始よりこのかたこの世まで」ずっと続いていたのだと思います。どういうわけか、そのことに気づくことなくきてしまったが、もうはるか過去から、どんな過去よりももっと過去からずっと寄り添ってくださっていたのだと思う。
 本願に気づいた(これが信心です)のは「いま」であり、そして気づいた「いま」はじめて本願は姿をあらわしたのだけれども(それまでは本願なんて影も形もなかったのだけれども)、しかしそう思うとともに、本願は「無始よりこのかたこの世まで」照らしつづけてくれていたと感じる(そしてこれからも永劫にわたって照らしてくれると感じる)、これが気づきの不思議です。本願は信心の「いま」姿をあらわしましたが、しかしもう十劫の昔から(どんな過去よりももっと過去から、永劫の昔から)存在しているのです。ここに「いま」と「永遠」の不思議な関係をほのかに垣間見ることができます。「いま」のなかにしか「永遠」はないという不思議です。
 われらは永遠なる本願に「いま」遇うしかないということ、永遠は「いま」においてしか存在しえないということです。「遇ひがたくして〈いま〉遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」(『教行信証』総序)という親鸞の慶びの声が耳の奥に蘇ります。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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