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愚禿悲嘆 [親鸞最晩年の和讃を読む(その94)]

            第11回 愚禿悲嘆述懐

(1)愚禿悲嘆

 さてこれから愚禿悲嘆述懐和讃です。その第1首を読みますと「愚禿悲嘆述懐和讃」と名づけられたわけが分かります。

 浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし(94)

 これは「浄土真宗に帰」しはしたけれども「真実の心」のない誰か他の人のことを悲嘆しているのではなく、「わが身」を嘆いています。この愚禿釈親鸞は、すでに本願に遇うことができ、正定聚となることができたことを喜んでいるのに、「真実の心」がなく「虚仮不実」の身であると悲嘆しているのです。ここに親鸞浄土教の最大の特徴があると言えます。親鸞にとって「浄土真宗に帰す」ことは、決して「上がり」ではないということです。
 宗教というものは「信ぜよ、さらば救われん」と説くものです。信じることができさえすれば、もうすべてが解決され、愁いはなくなるというように言われるのが普通です。ところが親鸞という人は、浄土真宗に帰したといっても、虚仮の身が真実の身になるわけではなく、不実の心が清浄の心になるわけでもないと言い、それを悲嘆するのです。本願を信じる心がまだ不十分だから、虚仮の身、不実の心が残っていると嘆いているわけではありません。逆に、本願を信じる心が深くなればなるほど、わが身が虚仮の身であり、わが心が不実の心であることが悲嘆されるというのです。
 『教行信証』においてさえ親鸞は突然こんなことばを漏らします、「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし傷むべし」(信巻)と。これがいかに唐突であるかは、その直前まで、信を得て真の仏弟子になれたことはもはや「弥勒とおなじ」であり「仏とひとし」と謳いあげているのですから、もう驚くしかありません。

タグ:親鸞を読む
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