SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その96) ブログトップ

真実の心があるか [親鸞最晩年の和讃を読む(その96)]

(3)真実の心があるか

 親鸞には善導のことばが「善い人であるかのような顔をするな、お前の心には虚仮がはびこっているのだから」と聞こえたのに違いありません。
 『観経』の文章を素直に読めば「至誠心(真実の心)をもたねばなりません」と理解するしかありませんし、善導もそのように受けとったに違いありません。ところが親鸞には「われらに真実の心なんかありっこない」としか思えないのです。「真実の心をもたねばならぬ」と「真実の心をもとうとしても、もてっこない」との間にはくっきりとしたコントラストがあります。前者は、「もたねばならぬ」と言う以上、当然「もつことができる」と考えています。もしも「もてっこない」としますと、「もたねばならぬ」と言うのはナンセンスですから。したがってここには、われらは真実の心を「もてる」という立場と「もてない」という立場の対立があるということになります。
 前者が倫理の立場、後者が宗教、少なくとも親鸞浄土教の立場です。
 「もてる」ことを高らかに宣言したのがカントです。彼の有名なことばに「われなすべきである(soll)がゆえに、われなしうる(kann)」というのがあります。一見謎めいていますが、カントとしては当然至極のことで、「なすべき」というのは理性の無条件の命令であり、その命令にしたがうことが自由にほかなりませんから、このことばは「わたしは自由である」ということを意味します。ですから、もし誰かが「なすべきであるとしても、なしえない」と言うとすると、それは「わたしは自由ではない」と表明していることになります。少し補足しますと、カントにとって自由とは理性の自律、すなわち理性の命じることに自ら従うことであり、逆に欲求のままにふるまうことは他律であって、自由を失っていることです。したがって理性が「こうなすべし」と命令しているのに、「そんなことはできません」と言うのは、「わたしには自由がありません」と言っていることになります。
 かくして、真実の心を「もてる」か「もてない」かは、「自由である」か「自由でない」かということになります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その96) ブログトップ