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自由と宿業 [親鸞最晩年の和讃を読む(その97)]

(4)自由と宿業

 ひとは真実の心をもとうとしてももてない、とか、ひとは自由でない、などと言いますと、ひとを見下げ果てるというか、あまりにも否定的な見方のような気がします。対して、ひとは自由であるがゆえに、なすべきことをなしうる、というように言いますと、ひとであることが誇らしく気高く感じられます。以前、ぼくの親鸞講座がはねた後で、ある方が憮然として、「どうして親鸞はこうも人間を悪く見るのでしょうね。人間にはもっと素晴らしい面がいっぱいあるでしょうに」と言われたことが頭にこびりついています。
 ここで自由ということについて少し考えておきたいと思います。
 自由の一般的な意味としては、他から支配を受けずに、自分でものごとを決定することとなりますが、カントは理性の無条件の命令に従うことであるとします。無条件の命令といいますのは、「何々しようと思うなら、何々しなさい」という条件付きの命令(たとえば「ひとから信頼されようと思うなら、嘘をついてはならない」)ではなく、まったく条件なしに「何々せよ」(「嘘をつくな」)と命じてくるものです。カントによりますと、このような無条件の命令が存在することは「理性の事実」であり、それに従うことにこそ人間の尊厳があるとされます。
 ここに倫理の極点があると思いますが、では親鸞浄土教はどうか。
 『歎異抄』第13章のことばを参照しましょう。「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人の仰せには、卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらざることなしとしるべしと候ひき」。ここに宿業の思想が出てきますが、これが釈迦の縁起の法に由来するものであることは言うまでもありません。われらは何かをなすその都度、自分で考えてものごとを決めているには違いありません。ときには理性の無条件の命令に従い善きことをなすでしょうし、ときには欲求のおもむくままに悪しきことをなすでしょうが、いずれにしても自分で意思決定しているのは間違いありません。しかし、それらはみな宿業のなせるわざだというのです。

タグ:親鸞を読む
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