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われ先に [親鸞最晩年の和讃を読む(その100)]

(7)われ先に

 もういちど割り込みに戻りますと、後悔がおこるのは「割り込みをするなかれ」という理性の命令に従わずに割り込みをしてしまったからであり、だからこそ理性が「どうして理性に従わないのか」と反省を促してくるのです。それに対して懺悔とは、割り込みをするしないにかかわらず、自分のなかに「われ先に」という我執があることを恥ずかしく思うことです。しかし大方の人は「われ先に」で何が悪いと思っています。そう言えば、少し前から「何々ファースト」という言い回しが世に出まわっています、トランプ大統領の「アメリカファースト」、小池都知事の「都民ファースト」など。これなども、まあそんなものだろうと思っています。みんな多かれ少なかれ「自分ファースト」で生きているのですから。「われ先に」生きることを恥ずかしいなどと思うことはありません。
 生まれてこのかた光の差さない深海で育ってきた魚にとって、その闇の世界が唯一の世界であり、そこに生きていることを何とも思わないように、生まれてこのかた「われ先に」生きて生きたわれらは、それが普通であり、そのことを恥ずかしいなどと思うことはありません。しかし、あるときはじめて光に遇った深海魚は、そのとき自分は闇の世界にいることに気づいて驚くように、あるとき本願の光に遇うことができたわれらは、そのときはじめて「われ先に」という我執の闇の中にいることに気づき、そのことをこころから恥ずかしいと思うようになります。そして深海魚が闇のなかにいることに気づくのが外からやってきた光によってであるように、われらが我執の闇のなかにいると気づくのも外からやってきた本願の光によります。我執の闇の気づきは本願の光の気づきと一体です。
 かなりの道のりを歩んできましたが、ここでもう一度、先の和讃に戻りましょう。

 浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

 本願に遇うことができたのに、真実の心はなく、虚仮不実の身であることを悲嘆しています。としますと本願に遇うことにどんな意味があるのでしょう。むしろ本願などに遇わない方が気楽に人生を楽しむことができるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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