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無慚無愧のこの身にて [親鸞最晩年の和讃を読む(その101)]

(8)無慚無愧のこの身にて

 次の和讃がその疑問に答えてくれます。

 無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名(みな)なれば
  功徳は十方にみちたまふ(97)

 何ごとにも「われ先に」と生きていることを何とも思わず、ましてやそれを慚愧することなど思いもよりません。それは人間として当たり前のことであり、そんなふうにして他人と競い合うことにこそ生きる醍醐味があると思う。ところがある頃から、何だかよく分からないが、これまで「われ先に」と他人と競い合って一喜一憂してきたことが急にかげり出し、生きることそのものに「何の意味があるのか」という疑問符がつくようになることがあります。これは、自分では意識していなくても、一種の気づきがあったということではないでしょうか。何ごとも「われ先に」と生きることが人間として当然のことと思っていたが、そうでもないのではないか。そんなふうに思い込み、その思いに囚われていただけではないか、という気づき。
 そんな気づきはない方がいいのかもしれません。前にもお話したことがありますが、高校時代のぼくにもそんなときがありました。それまで何の疑いもなく勉強と部活に明け暮れていましたが、どういうわけか、突然「おまえは何をしているのか」という問いが突き付けられ、世界が急にフェードアウトしていくように感じられたのです。「なぜ生きる」という厄介な問いが突き付けられたということです。ぼくはもうこれまでの生活をそのまま続けることはできないと思いつめ、一時は禅寺に入ろうと決意をしたこともありました。そして結局はこれまでの理系志望を一転して、哲学を学ぶ道を選ぶことになりました。もしあの時あんな声が聞こえなければ、ぼくの人生はまったく違ったものになっていたことでしょう。
 そのときはその意味を深く考えることもありませんでしたが、今から振り返りますと、あのときのあの声は、何の疑いもなく「われ先に」と生きているぼくに対して「そんなことでいいのか」と問いかける仏の声でありました。

タグ:親鸞を読む
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