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功徳は十方にみちたまふ [親鸞最晩年の和讃を読む(その102)]

(9)功徳は十方にみちたまふ

 何度も言いますが、そんな気づきはない方がいいのかもしれません。何の疑いもないまま「われ先に」生きていく方がよほど幸せな人生かもしれません。でも、如何せん、「そんなことでいいのか」の声が聞こえてしまった。これは何ともなりません。さてでは、このように「無慚無愧のこの身」であること、「まことのこころ」などどこにもないことに気づかされたら、もうベタ一面の悲しみの中で生きていくしかないのでしょうか。そんなことはないとこの和讃は教えてくれます。「弥陀の回向の御名」が聞こえることで「功徳は十方にみちたまふ」のです。
 この和讃では「まことのこころ」は〈なけれども〉、御名が聞こえてその「功徳は十方にみちたまふ」と、この二つは逆接の関係にあるように詠われていますが、気づきとしてはひとつであるということに注意しなければなりません。「まことのこころがない」と気づいたときには、同時に「功徳が十方にみちている」と気づいているのだということです。前者が善導の言う機の深信、後者が法の深信で、この二つは一枚の紙の表と裏の関係にあります。機の深信があるところ、必ず法の深信があり、逆に法の深信のあるところ、必ず機の深信があります。
 「そんなことでいいのか」という声は機の深信を促しますが、そのとき同時に「そんなおまえをそのまま救おう」という声がして法の深信をもたらしてくれるのです。
 親が巣立ちした子に向かって、「ちゃんと生きているか」、「いのちを粗末にしていないか」と気遣うとともに、「いつでも帰っておいで」と声をかけるように、如来もまた衆生に向かい、「そんな生き方でいいのか」、「恥ずかしい生き方をしているのではないか」と気遣うと同時に、「来れ、救わん」と呼びかけているのです。第18願において「もし生まれずば正覚をとらじ(若不生者、不取正覚)」と誓われるとともに、「ただ五逆と誹謗正法を除く(唯除五逆誹謗正法)」とあることも、前者が「いつでも帰っておいで」の呼びかけであり、後者が「そんな生き方でいいのか」という気遣いであると理解することができます。
 気遣いの声と招喚の声は一体となっているのです。      

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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