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内心外道に帰敬せり [親鸞最晩年の和讃を読む(その103)]

           第12回 愚禿悲嘆述懐(つづき)

(1)内心外道に帰敬せり

 愚禿悲嘆述懐のつづきですが、これまでとは色合いが異なってきます。

 五濁増1のしるしには
  この世の道俗ことごとく
  外儀(げぎ)は仏教のすがたにて
  内心外道を帰敬(ききょう)せり(100)

 かなしきかなや道俗の
  良時・吉日えらばしめ
  天神・地祇2(てんじん・じぎ)をあがめつつ
  卜占祭祀3(ぼくせんさいし)つとめとす(101)

 注1 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五濁が盛んとなること。
 注2 梵天・帝釈天などの天の神と、堅牢地祇・竜王などの地の神。ここでは日本の神々も含めている。
 注3 左訓に「うら(うらない)、まつり、はらへ(おはらい)」とある。

 これまでは、外に「賢善精進」の相をとりつつ、内は「虚仮不実」の身であることを悲嘆してきましたが、これからは、道俗が外に「仏教のすがた」をとりつつ、内は外道の「卜占祭祀」にこころを寄せていることが嘆かれます。そしてこれまでは、親鸞自身の偽らざるありようを悲嘆していましたが、これからは、世の「道俗」たちの嘆かわしい姿を暴き出すという趣向となります。仏教の名のもとに卜占祭祀をこととするというのは、昔も今も変わりなく続いています。天地の神々にこの世の幸せを祈るのとまったく同じように、仏にも「商売繁盛、家内安全、病気平癒」をお願いして何ら怪しまない。神仏習合ここに極まれりというありようです。
 外道の卜占祭祀と仏教の教えは根本的に異なるはずなのに、どうしてそれが習合してしまい、神と仏が一緒になってしまうのか。神社と仏閣は外観が違うだけで、そこでわれらがすることは同じ、つまり「世の幸せを祈る」ことになるのか。ここにはじっくり考えなければならないことがありそうです。

タグ:親鸞を読む
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