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神仏に祈る [親鸞最晩年の和讃を読む(その104)]

(2)神仏に祈る

 神仏にこの世の幸せを祈るというのはどういう構図でしょう。いま病気平癒を例に考えてみますと、神仏に病気平癒を祈るのは、医者にそれを願うのとまったく同じ形です。病になりますと、まずは医者にかかり、それで埒が明かないとなったときに神仏に祈ることになりますが、そのとき神仏は医者と同じ役割を期待されています。つまり、医者はどのような病かを見たて、それにはどのような処方が効くかを判断して適切に処置してくれるであろうように、神仏は医者にはない超自然的な力をもって病を治してくれると期待するわけです。そのとき、医者あるいは神仏のもつ力とその働きが原因となって、病気が治るという因果関係が描かれています。
 ここで再び縁起の思想といわゆる因果の思想の違いを考えなければなりません。これについては、これまで何度か議論してきましたが、かいつまんでおさらいをしておきましょう。縁起とは「これあるに縁りてかれあり」とありますように、この世の存在はすべて縦横無尽につながりあっており、何ひとつとしてそのつながりから独立にあるものはないという思想です。これは何でもないことのようで、実に深く長い射程をもつ思想です。それに対していわゆる因果の思想とは、まずある原因があり、しかる後にそれに応じて結果が生じるという生成の考えで、われらはこれを当たり前のこととして世界を見ています。
 「いわゆる因果」と「いわゆる」をつけて言っていますのは、縁起のことを因果ということが多いのでそれと区別しているのですが、縁起といわゆる因果は混同してつかわれることが多く、それがさまざまな混乱の元となっています。仏教の根幹がこの縁起の思想にありますから、それにまつわる混乱は致命的なものとなります。例えば四諦説のなかの集諦。「生きることはみな苦である」とするのが苦諦(苦についての真理)で,「苦のもとは煩悩である」とするのが集諦(苦のもとについての真理)です。この「苦のもとは煩悩」とは、苦と煩悩とは一体としてつながっているということですが(苦あるところ煩悩があり、煩悩あるところ苦があるということ)、それを「苦の原因は煩悩」とすることから重大な迷妄が生じてきます。

タグ:親鸞を読む
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