SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その106) ブログトップ

「わたし」 [親鸞最晩年の和讃を読む(その106)]

(4)「わたし」

 もとに戻りまして、われらが仏を祈り願うとはどういうことかを考えているのでした。われらが仏に祈願するとき、仏の力とその働き(仏教では働きのことを用-ゆう-といい、力と合わせて力用といいます)が原因となって、たとえば病気平癒という結果がもたらされるという構図が描かれています。その因果関係をもとに、病気平癒のためには仏に祈願しなければならないという指針が導かれているわけです。これは病気になったとき医者を頼りとするのと同じ構図であり、きわめて常識的で分かりやすいと言えますが、しかし仏教とは縁もゆかりもありません。
 先ほど、「わたし」が煩悩をなくそうとすると、「わたし」は無限のつながりとして存在している世界の外に立たなければならないと言いましたが、ここでもまったく同じことが言えます。「わたし」が仏の力用を利用して(という言い方がまずければ、仏の力用をお借りして)病気平癒を手に入れようとしますと、「わたし」はひとり世界の無尽のつながりの外に立つ必要があります。しかし縁起の思想において仏とはこの縦横無尽のつながりそのものであり、そのなかに「わたし」もあるのですから、この構図は縁起とは縁もゆかりもないと言わなければなりません。
 われらはともすると「わたし」は縁起の網の目の外にあるかのように見てしまうのですが(いや、そのような構図をわれらが世界に持ち込んでいるのですから、そのように見えるのは当たり前のことですが)、実は「わたし」も縦横無尽の網の目のなかにあるのだとしますと(釈迦が無我というのはこのことで、縁起と無我は同じです)、われらはただただそのようなつながりのなかで、あるようにあり、なるようになるしかないのでしょうか。前に宿業と自由の問題を考えたのと同じところに出たようです。ここでは少し違う角度から考えたいと思います。「わたし」が縁起の網の目のなかにあるとすると、行為についての責任はどうなるのだろうかということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その106) ブログトップ