SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その108) ブログトップ

慶州の仏国寺で [親鸞最晩年の和讃を読む(その108)]

(6)慶州の仏国寺で

 もうかなり前になりますが、韓国の慶州に旅したときのことです。慶州と言いますのは昔の新羅の都で歴史の街ですが、そこに仏国寺という、のちに世界遺産に登録されることになる名刹があります。われら数名の日本人観光客はその寺に案内され、韓国人女性ガイドから詳しい説明を受けました。「ここには木造建築物はなく、石造のものだけが残っています。どうしてだと思いますか」と問いかけ、それにみずから「それはお国の豊臣秀吉軍が焼き払ったからです」と答えます。彼女の口調には非難の色はなく、ただ自分の知っている知識を披露しているという感じですが、ぼくのなかに一種の緊張が走りました。ぼく自身の責任を問われているように感じたのです。
 いま言いましたように、彼女にはおそらく非難しようという意識はありませんし、何と言っても500年も前の出来事であり、しかもぼくとは縁もゆかりもない秀吉のしたことでぼくが責任を感じることはありません。と思いつつ、しかしぼくは何か恥ずかしさを感じた。これはいったい何でしょう。縁起の感覚としか思えません。ぼくと秀吉とは見えない糸でつながっているという感覚。だから秀吉のしたことはぼくと無縁だとは思えないということです。これを敷衍しますと、世界中のありとあらゆることがらがぼくと無縁ではなく、それに責任を感じることになります。もちろんいつもそんな責任を感じているわけではなく(もしそうなら神経がもたないでしょう)、日々いたってノーテンキに生きていますが、あの旅の出来事のように、あるきっかけで突然感じてしまうのです。
 「わたし」は縁起の網の目のひとつの結節点にすぎませんから、無尽のつながりのなかでいまあるようにしかありえず、かくしてすべての責任を網の目の総体である「無限のいのち(アミターユス)」に委ねて生きることができるのですが、それと同時に、網の目の他のすべての結節点とつながっていることにより無限大の責任を感じざるをえなくなります。コインの表ではあらゆる責任から解放され、しかし同時に、コインの裏ではあらゆる責任を負わされるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その108) ブログトップ