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善光寺和讃 [親鸞最晩年の和讃を読む(その109)]

(7)善光寺和讃

 愚禿悲嘆述懐のあと、最後に善光寺和讃が詠われます。

 善光寺の如来1の
  われらをあはれみましまして
  なにはのうら2にきたります
  御名をもしらぬ守屋3にて(110)

 そのときほとほりけ4とまうしける
  疫癘(えきれい)あるいはこのゆゑと
  守屋がたぐひはみなともに
  ほとほりけとぞまうしける5(111)

 注1 百済から渡来したといわれる阿弥陀三尊像。
 注2 仏像が摂津の国、難波(今の大阪)の浦にきたということ。
 注3 物部守屋。仏教の受容に反対して蘇我氏と対立し、敗れる。
 注4 熱病のこと。
 注5 仏像が熱病のもとであるとして、仏像のことをほとほりけ、ほとけと呼ぶようになったという俗説。

 善光寺和讃は善光寺の秘仏である阿弥陀三尊にまつわる言い伝えをもとにつくられています。それによりますと、百済より伝わった仏像(『日本書紀』では釈迦像といわれますが、この言い伝えでは阿弥陀三尊像)を巡り、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏とが対立し、結局、蘇我氏がこれをもらいうけます。ところが、あるとき激しい熱病が蔓延し、物部氏はこれを異国からやってきたわけの分からぬ仏像を祀るからだとして、仏像を祀っていたお寺を焼いてしまい、それでも焼け崩れない仏像をなにわの海に投げ捨てたといいます。それからときが移り、蘇我氏が物部氏との権力争いに勝利をおさめた後、信濃からやってきた本田善光という人物が海の中で光るこの仏像を見つけ、郷里に持ち帰って大事におまつりするようになる。これが善光寺の縁起です。

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