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まじなひ [親鸞最晩年の和讃を読む(その110)]

(8)まじなひ

 さて、仏教を排斥する物部守屋が、熱病を意味する「ほとほりけ」(「ほとぼりがさめる」というときの「ほとほり」の語尾に「け」がついたもの)をもたらすものとして仏を「ほとけ」と呼ぶようになり、そこから「ほとけ」という名称が一般化していったというのです。「ほとけ」という名前そのものに「疫病神」という意味あいが含まれていて、それがもとで仏教が疎んじられるようになったということです(実際には、「ほとけ」の「ホト」は「仏」の古い中国語音を日本語にうつしたもので、その語尾に目に見える形を表す「ケ」がつき、仏像を意味したそうです)。
 このような言い伝えから分かりますのは、仏教はその伝来の最初から呪術と結びついていたということです。仏教を受容するか拒絶するかは、外来の仏像を祀ることが幸せをもたらすか、それとも不幸をもたらすかという対立であったということ。善光寺に行ってみますと、今日においても仏教が呪術であることがよく分かります。善光寺が多くの善男善女を集めるもとは秘仏である阿弥陀三尊像で、これは文字通りまったく秘されているのですが(7年に一度ご開帳されるのは前立本尊とよばれる摸像です)、絶対見えないからこそ霊験あらたかで有り難いとされるのです(そう言えば、一寸先も見えない真暗闇の「戒壇巡り」も人々のこころを引き付けるようです)。
 さて鎌倉新仏教こそが「仏教は呪術ではないこと」を明らかにしたと言えます。とりわけ親鸞の浄土思想はその点が顕著です。ここで改めて仏教と呪術(まじなひ)について考えておきたいと思います。
 「まじなひ」を辞書で調べますと、「マジ」とは「人に対するのろい、病気の治療など、善悪にかかわらず呪術の意」で、「ナヒ」は「おこなひ(行)」の「ナヒ」と同じく、何か動作をするという意味のようです。そこから、呪いをかけたり、災害や病苦を取り除き、あるいは防ぎとめる呪術を行うことを意味します(『岩波古語辞典』)。アニミズムやシャーマニズムとよばれる原始宗教はみな「まじなひ」の宗教で、インドのバラモン教も例外ではありませんでしたが、紀元前5世紀ごろにそうした「まじなひ」の宗教に反旗をひるがえす自由思想家たちが登場してきました。釈迦もその一人であり、仏教は元来「まじなひ」の宗教に対立するものであったのです。

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