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めざめ [親鸞最晩年の和讃を読む(その111)]

(9)めざめ

 インドのバラモン教や日本の神道は「まじなひ」の宗教であるのに対して、仏教は「めざめ」の宗教と言うことができます。「まじなひ」とは、何か神秘的な力を利用して世界のありようを自分の都合のいいように変えようとすることですが、「めざめ」とは、世界のありようを、ありのままに見ることです。これまで夢をみていたが、あるときふとめざめて世界のありのままの姿(これを仏教では実相とか真如といいます)に気づく。仏教が縁起というのは世界の実相のことで、それにめざめよと仏教は説くのです。さてしかし「まじなひ」によってこの世の幸せを招き寄せようというのはよく分かりますが、縁起に「めざめる」ことにいったいどんな功徳があるのでしょう。
 縁起に「めざめる」とは、四諦の教えで言うと、生きることは苦しみであり(これが苦諦です)、その苦しみは煩悩(我執)によってもたらされると気づくことです(これが集諦です)。それを裏返せば、煩悩のないところには苦はないということになります(これが滅諦です)。念のためですが、苦をなくすために煩悩を消さなければならないということではありません。なるほど煩悩を消すことができれば苦はなくなるでしょうが、と同時に煩悩とつながっている生そのものが消えてしまいます。
 さてでは「煩悩のあるところに苦があり、煩悩のないところには苦がない」と気づくことで何が起るのでしょう。その気づきにより苦がなくなるわけではありません。むしろ、その気づきによって苦がはっきり姿をあらわすのです。
 煩悩のあるところに苦があると気づくまでは、生きることには苦もあれば楽もあると思っています。人生において、あら嬉しや、あら楽しや、と思うことはたくさんあります。しかし釈迦は言います、「楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうと、内的にも外的にも、感受されたものはすべて苦しみであると知る」(テーリーガータ)。苦受はもちろん、楽受もまた苦であるというのです。『無量寿経』「三毒段」の印象的なことばでは、「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬六畜(ごめろくちく)・奴婢・銭財・衣食・什物(じゅうもつ、家財道具)、またともにこれを憂う」のです。田がないことは苦ですが、田があることもまた苦であるということ。そのことに気づく。

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