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苦しみながら苦しみから抜け出る [親鸞最晩年の和讃を読む(その112)]

(10)苦しみながら苦しみから抜け出る

 煩悩のあるところに苦があると気づくことで、苦がそのほんとうの姿をあらわすのだとしましたら、むしろそんな気づきはない方がいいのではないかと言いたくなります。人生苦もありゃ楽もあると思って生きている方がいいではないかと。しかし、苦もありゃ楽もあるとしますと、何とかして苦を減らし楽を増やさなければと思って必死になるのが人情です。そしてそのために人と激しい競争をして傷つき、また人を傷つけることになる。それが人生というものさ、と思えればいいでしょうが、そこに何とも言えない虚しさを感じ、寂しさを感じるときがあります。そのときが気づきのはじまりです。どこかから声がするのです、「そんなことでいいのか」と。
 生きることは苦しみであり、それは煩悩とともにあるという気づきは、苦しみながら苦しみから抜け出ることです。苦しみの実相が透き通って見えてきたとき、苦しみのなかにありながら、もうすでに苦しみから脱出しています。これは心が何かに囚われているとき、そのことに気づきますと、囚われていながら、もうすでに囚われから抜け出ているのと同じです。煩悩とは我執という囚われに他なりませんから、その囚われに気づくことで、囚われつつ、囚われから抜け出ることができるのです。囚われていながら、それに足をとられることなく、変な言い回しですが、安心して囚われの人生を歩むことができる。仏教は「めざめ」の宗教だというのは、そういうことです。
 さて善光寺和讃のあと自然法爾章とよばれる親鸞の法語(聞き書き)がありますが、それは割愛しまして、最後におかれた和讃を読んでおきましょう。

 是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利2に人師(にんし)をこのむなり(116)

 注1 正しいか正しくないかのみわけもつかない。
 注2 名聞利養の略。名誉と利益。

タグ:親鸞を読む
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