SSブログ
『教行信証』精読2(その2) ブログトップ

四十八願の名号 [『教行信証』精読2(その2)]

(2)四十八願の名号

 法照という人は唐代の僧ですが、五会念仏をはじめたことでよく知られています。五会念仏とは南無阿弥陀仏を五種類の曲調にのせて称えることをいい、皇帝の命で宮中において五会念仏を修することもあって大きな広がりを見せたようです。また延暦寺の円仁が五台山でこの五会念仏を学び、比叡山に伝えたことで、山の念仏として継承されていきました(親鸞はその常行三昧堂の堂僧をつとめていたことが恵信尼により証言されています)。親鸞は『唯信鈔文意』において法照の文(この後に出てきます)を詳しく解説するなかで、法照という人を「唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり。このゆへに後善導とまふすなり」と紹介しています。
 さて『五会法事讃』という書物は、この五会念仏の意義や行儀作法を述べ、さらに念仏の讃文を集めたものですが、ここに引用されているのはその序分の三つの文です(後で、さらに五つの讃文が引かれます)。見られるように、聖道門において無念・無相の境地を求めるのと、浄土門において念仏三昧を修するのとを対比して、「修しやすく証しやすきは、まことにただ浄土の教門なり」と結論します。なぜ浄土の教門が「修しやすく証しやすき」かいうと、それが他の行とくらべて簡単であるからということよりも、「弥陀法王、四十八願の名号をもつて、ここに仏願力をこととして衆生を度したまふ」からであるということ、これが肝心でしょう。
 ここで「四十八願の名号をもつて」とあることに注目して、本願と名号の関係をあらためて考えてみましょう。本願と名号はつなげて言われるのがしばしばで、たとえば親鸞も「正信偈」で「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」と言っています。ぼくらは何となく本願と名号は別ものであるように思っていますが、四十八願を子細に見ますと、そこに名号ということば(乃至はそれと同じ意味のことば、たとえば「わが名」あるいは「わが名字」)が実にしばしば登場します(13願に及びます)。名号は本願のなかにしっかり埋め込まれているのです。そして名号ということばはほとんどの場合「聞きて」を伴います。本願において、名号は称えるものではなく、聞くものであるということ、これがきわめて重要な意味をもちます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その2) ブログトップ