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本願と名号 [『教行信証』精読2(その3)]

(3)本願と名号

 本願のなかに名号がしばしば登場し、ほとんど場合、その後に「聞きて」を伴って出てくると言いましたが、ただ一つ例外があります。それが第17願で、そこでは名号は諸仏が「称える」ことになっています。その他の願において衆生が聞くことになる名号は、第17願において諸仏が称えるわけです。「諸仏が名号を称え、衆生がそれを聞く」という構図が貫かれています。諸仏が名号を称えるのは弥陀を讃えるということですが、弥陀の何を讃えるかと言うと、つまるところ弥陀の本願を讃えるわけです。かくして弥陀の本願は、諸仏がそれを讃えて名号を称えることにより一切衆生のもとに届けられることになります。
 ここに本願と名号の関係をはっきり見て取ることができます。本願は単なる願いとしてあるだけでは力とならず、それが名号により一切衆生に届けられてはじめて救済のはたらきをすることができるということです。しかもその名号の用意も本願のなかで(第17願で)なされているということ、ここに両者の関係をみることができます。本願は、それが一切衆生に届けられるようにするための名号まで含んでいるということです。かくして本願と名号は一体であることが明らかになりました。願はそれを実現するための行を伴っているのです。
 これが「仏願力をこととして衆生を度したまふ」ということですが、さてではわれら衆生の信心と念仏はどうなるのでしょう。願も行もすでに弥陀により整えられているとしますと、われらの出番がなくなるのではないでしょうか。それに答えてくれるのが第18願です。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにに生れんとおもふて、乃至十念せん」とありますが、「心をいたし信楽して」(信心)とは「その名号を聞きて」(18願成就文)ということに他なりません。信じるとはすなわち名号が聞こえるということ(聞名)です。そして名号が聞こえた喜びが声となって口をついて出る、これが「乃至十念」(念仏)です。
 名号が聞こえ、それにこだまするように名号が口をついて出る、それが救いそのものです。第18願成就文はそのことを「すなはち往生をえ、不退転に住す(即得往生、住不退転)」と言います。

タグ:親鸞を読む
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