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観音・勢至おのづから来り迎へたまふ [『教行信証』精読2(その5)]

(5)観音・勢至おのづから来り迎へたまふ

 この文は、「名を称するのみ」で、浄土へ「往くこと」ができ、「観音・勢至おのづから来り迎へたま」い、さらには「罪消除すること」ができ、「六神通を具し、自在」をえることができるなど、さまざまな功徳がえられると述べるのですが、さて問題はそれがいつのことかということです。『称讃浄土経』によりますと、観音勢至の来迎をうけ浄土に往生するのは臨終のときとなっていますから、おそらく法照もこれらのことはみないのち終わったのちのこととしてこの文を書いていると思われますが、親鸞はちょっと、いや、かなり違う角度からこれを読みます。
 『唯信鈔文意』の該当箇所を引用しますと、こうあります。「観音勢至自来迎といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり。…弥陀無数の化仏・無数の化観世音・化大勢至等の無量無数の聖聚、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふすなり」。これをみますと、観音・勢至が「来り迎へたまふ」のはとくに臨終のことではなく、「真実信心をえたるひと」に「ときをきらはず、ところをへだてず」、「かげのかたちにそえるがごとく」寄り添ってくださると読めます。
 親鸞は弟子への手紙のなかではっきり言っています、「来迎は諸行往生(さまざまな行により往生をめざす立場)にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり」と(『末燈鈔』第1通)。そしてさらにこう言います、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」と。親鸞のスタンスはきわめて明らかで、そこからしますと経に観音・勢至の来迎と説かれているのは、観音・勢至がいつも信心の人に寄り添い、その身を護ってくださるという意味になります。

タグ:親鸞を読む
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