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念仏成仏はこれ真宗なり [『教行信証』精読2(その8)]

(8)念仏成仏はこれ真宗なり

 二つ目の讃文に出てくる「念仏成仏是真宗(念仏成仏はこれ真宗なり)」という文言は親鸞の『浄土和讃』に生かされ、「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」と詠われています。法照はここで「好悪いまのときすべからく決擇すべし」と言い、親鸞は和讃で「権実真仮(方便と真実)」を明確に分けなければならないと言いますが、それをつきつめれば他力か自力かを決するということになるでしょう。念仏成仏の教えは他力すなわち真であり、持戒坐禅(万行諸善)の教えは自力すなわち仮であるということ、ここにすべては収斂します。
 他力と自力、ここにあらためて光を当ててみましょう。
 他力と自力を「他力をたのみとすること」に対して「自力をたのみとすること」というように対照させていいでしょうか。それは間違いだとまでは言えませんが、これだけでは落とし穴にはまる危険があります。「他力をたのみとする」というのは一見他力のようですが、実は自力であることがしばしばあるからです。たとえば神仏をたよりとして病気の平癒を祈るというような場合、これは他力をたのみとしていると言えますが、そのとき他力は自分の外にあり、それを自分のために引き寄せようとしています。これは紛れもなく自力です。
 ではまことの他力とは何か。
 あるとき、もうすでに他力のなかにいることに気づく、これが真の他力です。そのとき他力は自分の外にあるのではありません、自分は他力のなかにあって他力と一体となっています。「行巻」のもう少し先の方で親鸞は「他力といふは、如来の本願力なり」と言っていますが、如来の本願力とは自分の外のどこかにあるわけではありません。自分はもう如来の本願力のなかにいるのです。そのことに気づく。これが弥陀の本願を信じるということです。自分の外にある本願を信じるのではありません、自分は本願のなかにあると気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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