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他力と縁起 [『教行信証』精読2(その9)]

(9)他力と縁起

 ぼくらは何ごとも自力でなしています。ただそう思っているだけではなく、間違いなく自分の意思のままに行動しています。右手を上げようとして右手を上げ、左手を上げようと思えば左手を上げることができます。もちろんそうしようと思ってもできないことはいくらでもありますが、それはそのための条件がそろっていないからであり、自分の意思のままに行動しようとしていることに違いはありません。これが自力ということですから、ぼくらのなすことはすべて自力と言えます。他の人の力を借りる(他力をたのみとする)ことなくして生きていけませんが、そうしようと思ってしているのですからそれも自力のうちです。
 ところが、それがそっくりそのまますでに他力のなかでのことであるということ、これが他力のほんとうの意味です。
 釈迦が縁起ということばで言おうとしたのもこのことでしょう。ぼくらは他から独立した「われ」があると思っています。そしてその「われ」が自分の意思でものごとを計らっていると思っています。いや、そう思っているだけでなく、実際にそのように行動しています(それを否定して、ぼくには自分の意思などなく、ロボットのように何かに操られていると言う人がいるでしょうか)。ところが釈迦は、その「われ」というもの、他から独立しているどころか、宇宙のすべてと切り離しがたく繋がっていると言うのです。それが縁起です。
 「ぼくらが他と繋がっていることは認めるよ。ぼくは妻と繋がっているし、友人たちとも繋がっている。で、それがどうした?」という反応が返ってくるかもしれません。しかし、こうした繋がりは「われ」がそうしようと思って繋がっているのであり、縁起という繋がりとは似て非なるものです。縁起とは、こちらから繋がろうと思おうが思うまいが、否応なしにすべてと繋がりあっているということです。宇宙全体が縁起の壮大な繋がりのなかにあり、「われ」はそうした縦横無尽の繋がりの糸のひとつの、たまさかの結節点にすぎないのです。
 「われ」は縁起のただなかにあるということ、これは自力がそっくりそのまま他力のなかにあるということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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