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浄土の物語 [『教行信証』精読2(その11)]

(11)浄土の物語

 これを読むとき『称賛浄土経』による讃文を読んだときの問題に再び出会います。「西方浄土にゆく」のはいつのことかという問題です。
 『阿弥陀経』は、まず「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏ありて、阿弥陀と号す。いま現に在まして説法したまふ」と述べ、次いで、金・銀・瑠璃(るり、青色の珠玉)・玻璃(はり、水晶)などでできた極楽浄土と光明無量・寿命無量の阿弥陀仏および聖衆(しょうじゅ、菩薩たち)のすばらしいありようを説きます。そして阿弥陀仏の名号を聞き、それを称えれば「その人、いのち終わる時に臨んで、阿弥陀仏は、もろもろの聖衆とともに、その前に現在したまふ。この人終るとき、心顚倒せず。すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することをえん」と説くのです。そして「もし衆生ありてこの説を聞かば、まさにかの国土に生まれんと願を発すべし」と勧めます。
 このように『阿弥陀経』は浄土の教えのツボをコンパクトにまとめています。そしてこれを読むことで、浄土の教えはみごとな物語として語り出されていることがよく分かります。この物語では「西方にゆく」のは「いのち終わる時」であることが明らかです。なにしろ極楽浄土は「これより西方、十万億の仏土を過ぎ」たところにあるのですから、そしてそこはこの世のものとは思えない荘厳の世界ですから、そこへ往くのは「いのち終わる時に臨んで」となります。物語の自然な流れとしてそうならざるをえないのです。
 さてしかし、この浄土の物語は、ある気づきをことばで伝えようとして生み出されたものであるという点が肝心です。浄土の物語は、われらをその気づきに導くための道しるべ(龍樹の「月をさす指」)であるということです。ただ、その気づきがどのようなものであるかは『阿弥陀経』だけではよく見えず、『無量寿経』に説かれる本願の物語をまたなければなりません。法蔵菩薩が苦海に沈む一切衆生を救おうという一大誓願を立て、それが成就して法蔵は阿弥陀仏となられたという物語がそれで、『阿弥陀経』の「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり云々」はそれにつづく話です。
 この法蔵の誓願に浄土の物語の秘密を解く鍵があります。

タグ:親鸞を読む
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