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筏(いかだ)のたとえ [『教行信証』精読2(その12)]

(12)筏(いかだ)のたとえ

 「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏ありて、阿弥陀と号す。いま現に在まして説法したまふ」ことになったそもそもは、法蔵菩薩が一切衆生を救おうという誓願(「若不生者、不取正覚―もし生まれずば正覚をとらじ」)を立てたことによるということ、ここに浄土の物語のもととなった気づきがどのようなものであるかを知る手がかりがあります。つまりこういうことです。宇宙のかなたからやってくるかなすかな信号(それは「宇宙の願い」とでもいうべきものです)が傍受され、それが法蔵の誓願(弥陀の本願と言っても同じです)という物語として語り出され、そしてそれは浄土の物語へと膨らんでいったということです。
 浄土の物語の本質は法蔵の誓願にあり、法蔵の誓願とは宇宙の願いに他ならないということ、そして宇宙の願いに気づくことはもうそれが成就されたということであり、それでわれらは救われたということです。このように浄土の物語は、宇宙の願いが気づかれたこと、そしてそのことがすでに救いに他ならないことを語るための手立てであるにもかかわらず、それがいつしか忘れられ、物語られるままを文字通りに受けとりますと、「いのち終わる時に臨んで、阿弥陀仏は、もろもろの聖衆とともに、その前に現在したま」い、西方十万億土にある極楽浄土へ往生すると信じることになります。
 釈迦の説法の中に「筏のたとえ」があります。ある旅人が大洪水に遭遇し、材料を集めて筏を作り、それに乗って彼岸に渡ることができたのですが、「そのとき彼は思った、『わたしはこの筏に乗って河を渡り得て、かの安全な岸に着くことができた。この筏は実に有益なものであった。さあ、わたしはこの筏を頭にのせ、あるいは肩にかついで、この先旅をつづけよう』と。修行僧らよ、この人の考えを汝らはどう思うか―左様、この人の考えはまちがっているであろう。しからば、彼はどうしたらよいであろうか。『たしかにこの筏は有益であった。しかし、この筏の役割は終わった。この筏は岸辺において旅をつづけよう』と」(『マッジマ・ニカーヤ』中村元訳)。
 弥陀の本願(宇宙の願い)の気づきに至れば、浄土の物語はもうその役割を終えましたから、それを「頭にのせ、あるいは肩にかついで」旅することはありません。岸辺にそっとおいて往生の旅を続ければいいのです。

タグ:親鸞を読む
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