SSブログ
『教行信証』精読2(その15) ブログトップ

本願を信じたところに、浄土は現在している [『教行信証』精読2(その15)]

(15)本願を信じたところに、浄土は現在している

 この偈文を書いたのは慈愍という唐代の僧で、慈愍流念仏をはじめた人です。インドの仏跡を訪ね、ガンダーラの地で観音の霊告を受けて浄土往生を願うようになったと言われています。
 この文は慈愍の『般舟三昧讃』からとられていますが、これを読みますと善導の影がいたるところに感じられます。そしてこの人もまた御多分にもれず「いのち終わったのちにかの土に往く」ことを疑っていません。「いざいなん」とか「いづれのところにあひたづねてかゆかん」といった表現にそれが明らかに示されていますが、龍樹流に言いますと、弥陀の本願という月そのものではなく、それを指し示す指を見つめているということです。あるいは、「極楽のいけのうち七宝のうてな」の物語を、本願の気づきに至るために役立った筏として岸辺においておくのではなく、それ自体を真理として後生大事に担いで旅をしていると言わざるをえません。
 彼自身が言うように「まさしくまれに浄土の教をきくに値(もうあ)へり。まさしく念仏の法門のひらくるに値へり。まさしく弥陀の弘誓のよばひたまふに値へり」だとしますと、もうすでに本願の声が聞こえているのですから、その上どうして臨終をまつ必要があるでしょう。どうして来迎をたのむ必要があるでしょう。本願の声が聞こえたそのとき、もうすでに「極楽のいけのうち七宝のうてな」にいるのではないでしょうか。本願を信じたところに、浄土は現在している(曽我量深)ではありませんか。
 親鸞は『唯信鈔文意』においてこの偈文の中の「かの仏因中に」から「こがねとなさしむ」の部分を丁寧に解説しています。そのうち「よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ」を注釈する印象的なことばを上げておきましょう。「かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし(猟師)・あき人(商人)、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはち、れふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり」。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その15) ブログトップ