SSブログ
『教行信証』精読2(その17) ブログトップ

本文7 [『教行信証』精読2(その17)]

(17)本文7

 『五会法事讃』からの最後の引文です。

 『新無量寿観経』(『観無量寿経』)による。法照。十悪五逆(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴が十悪。殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧が五逆)いたれる愚人、永劫(ようごう)に沈淪(ちんりん)して久塵(くじん、久しく煩悩の塵にまみれているということ)にあり。一念弥陀の号(みな)を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ずと。以上

 (現代語訳) 『観無量寿経』による讃文。法照
 十悪五逆の愚人は、これまではかりしれない長い間、煩悩の塵にまみれて迷いの海に沈んできましたが、いま一たび弥陀の名号を称えることで、浄土に往生し悟りの身とならせていただくのです。

 「永劫」と「一念」のコントラストが鮮明です。「永劫に沈淪して」きたのに、弥陀の本願に遇ったその一念に「かしこにいたる」。曇鸞の「千年の闇室」を思い出します。これまで千年のあいだずっと闇に覆われてきた部屋も、光が差しこんだその一瞬に明るくなる。千年闇のなかにあったのだから明るくなるにもまた千年かかるわけではないのです。先ほどの「よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ」場合もそうですが、「永劫に沈淪して」いたものが一瞬にして「かしこにいたる」となりますと、これは日常の時間のなかでのことではないと感じます。日常の世界においては錬金術やテレポーテーション(瞬間移動)は起こらないからです(そこからそれらは非日常の時間、死後の時間に移されます)。
 それはただ気づきにおいて起こります。弥陀の本願に気づいたそのとき(親鸞のことばでは「時剋の極促」)、瓦礫であったものがこがねと見える。瓦礫がこがねになるのではありません、瓦礫が瓦礫のままで、こがねと思えるのです。永劫の沈淪がとつぜん往生浄土となるのではありません、永劫の沈淪が永劫の沈淪のままで、往生浄土と思えるのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」と思える、これが救いであり、それ以外のどこにも救いはありません。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その17) ブログトップ