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永遠の本願 [『教行信証』精読2(その20)]

(3)永遠の本願

 『悲華経』に出てくる尊音王如来とは、久遠の阿弥陀仏と理解するしかありません。その仏土のすばらしいありようをみせてもらい、無諍念王(すなわち法蔵菩薩)が自分もまたあのような浄土をつくり、一切の衆生を迎えようという誓願をたてた。そしてその誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となり、その浄土が完成した、と。つまりこういうことです、法蔵菩薩の誓願にはすでにその先例があり、法蔵はそれにならって四十八願をたてたのであると。これは何を意味するかといいますと、弥陀の本願は永遠であるということです。
 物語の筋書きとしては、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行をしていたとき、一切衆生を救いたいという誓願をたてた。そして、その誓願が成就して阿弥陀仏とその浄土が生まれたということになるわけですが、そうしますと弥陀の本願には時間的にはじまりがあることになります。『無量寿経』において阿難が釈迦に問います、「その仏、成道したまひしよりこのかた、はた、いくばくの時を経たりや」と。そして釈迦が答えます、「成仏よりこのかた、およそ十劫を歴たまへり」と。弥陀の本願には十劫の歴史があるということです。としますと、ここに当然の疑問が生まれます、それ以前には弥陀の本願がなく、したがって救いもなかったということかと。
 それに対する答えはこうです、いや、法蔵の誓願にはすでにその先例があり、法蔵はそれをリレーしたに過ぎないと。かくして弥陀の本願は無窮であるということになります。法蔵は永遠の本願を傍受し、それを時間のなかにもたらしたということ。永遠の本願はそのままではなにものでもなく、誰かがそれを傍受してはじめて時間のなかに姿をあらわすことができるのです。それが弥陀の本願ですから、十劫のむかしにはじまったとしても実は永遠のむかしから存在しているのです。

タグ:親鸞を読む
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