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往生の因も弥陀から [『教行信証』精読2(その22)]

(5)往生の因も弥陀から

 憬興は『無量寿経』の前半(上巻)で「浄土の因果」が説かれ、後半(下巻)で「往生の因果」が説かれると述べていました。そこで、まず「浄土の因果」についての経文が出され、次いで「往生の因果」に関する『述文讃』の文が引かれます。一切衆生を救うために素晴らしい浄土が設えられても(これが「浄土の因果」です)、そこに衆生が往生できる道筋がつけられませんと(これが「往生の因果」です)、折角ととのえられた浄土も空しいと言わなければなりません。素晴らしい浄土が設えられた因は言うまでもなく弥陀の本願ですが、衆生がそこに往生できる因もまた弥陀の本願であるということ、ここに上げられた三つの文はいずれもそのことを述べています。
 最初の文は、注で言いましたように、親鸞の読み替えがなされています。「(如来は)施等の衆聖の行を備ふるなり」と読むところを、親鸞は「つぶさにひとしく衆生に行を施したまへるなり」と読んでいるのです。如来は浄土を与えてくださるだけではなく、そこに衆生が往生できるための行をも与えてくださるということです。その行とは名号であることは言うまでもありません。憬興はそこまで考えているわけではないでしょうが、親鸞は憬興の文を読みながら第17願のことを頭にうかべていたに違いありません。諸仏が弥陀をほめたたえてその名号を称えることで、弥陀の名号がわれらのもとに届けられ、それを聞くことにより往生できるということです。
 二つ目の文で「仏に値(もうあ)ひ、法を聞きて慶喜す」とあるのがそのことを言っているのですが、それまた「久遠の因によりて」であり、弥陀に遇い、名号を聞くことができるのも、そのようにはからってくださっている弥陀のお蔭であるということです。このように、浄土の因だけでなく、そこに往生できる因もまた弥陀から与えられているのですから、三つ目の文にありますように、「おのづから果を獲ざらんや」ということになります。往生できないはずがありません、ということです。

タグ:親鸞を読む
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