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『教行信証』精読2(その25) ブログトップ

本願力のゆゑに [『教行信証』精読2(その25)]

(8)本願力のゆゑに

 二つ目の文は、往生(救い)は本願力によるということ、そして本願力は「かくることなき」ものであり、「むなしからざる」ものであり、「壊することあたはざる」ものであり、「はたしとぐる」ものであるから、かならず往生できる(救われる)のだと述べています。救いはわれら自身が願うことです。その願いのないところに宗教はありません。しかしわれらの願いは大概「かくる」ものであり、「むなしい」ものであり、「壊する」ものであり、「はたしとげざる」ものです。われらの願いがもしそのようなものでなくなっているとすれば、それは「わたしの願い」でありつつ、実は「ほとけの願い(本願)」であるときです。「わたしの切なる願い」であるには違いありません、でもそれが実は「ほとけの願い」であることに気づいたとき、それはほんものであると言えます。
 少し前に国分功一郎氏の『中動態の世界』という本を読みました。非常にスリリングな本で、ゆっくり味わいながら読ませてもらいましたが、その出だしのところに興味深い一段があります。ちょっと引用してみましょう。「相手に謝罪を求めたとき、その相手がどれだけ『私が悪かった』『すみません』『謝ります』『反省しています』と述べても、それだけで相手を許すことはできない。謝罪する気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに『許そう』という気持ちの現れを感じる」。このように述べた上で、著者はこう結論します、「たしかに私は『謝ります』と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである」と。
 日々テレビで謝罪の場面が報じられます。それをみていますと、口では謝罪しているが、ほんとうに謝罪してようには感じられないことがほとんどです。国分氏は、それは謝罪している本人の意思とは関係なく(本人としては誠心誠意謝罪しているつもりでも)、そこに謝罪の気持ちが現れていないからだと指摘します。彼が言う謝罪の気持ちとは仏教的には慙愧の念のことでしょう。謝罪しているところに慙愧の念があるかどうかが問題であり、そしてその慙愧の念は自分で起こすことができるものではなく、どこかからやってきてそこに現れるものであるということ。国分氏の議論からそのようなことを汲み取ることができます。

タグ:親鸞を読む
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