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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [『教行信証』精読2(その26)]

(9)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

 慙愧の念は「わたし」という場に現れますが、それは「わたし」が生みだしたものではなく、「わたし」を通り越してどこかむこうからやってきたものであるということです。謝罪のことばが口先だけと感じられるのは、それを本人が一生懸命紡ぎ出しているが、そこに慙愧の念が現れていないからということでした。謝罪のことばはいくらでも自分で生み出すことができますが、慙愧の念はそういうわけにはいきません。ここは慙愧しなければならないと思って慙愧できるものではありません。どこかから「おまえは何というヤツだ」という声が聞こえてきて、その声にうなだれざるをえなくなるとき、そこにはじめて慙愧の念が現れるのです。
 願生の念も同じです。往生したい(救われたい)という願いは「わたし」という場に現れますが、しかしそれは「わたし」が生みだしたものではなく、どこか遠くからやってきたものです。むこうから「帰っておいで」という声が聞こえて、これまで濁りに濁っていたこころがサアーと澄み、そこに「帰りたい」という願生の念が現れるのです。「わたしの願い」が、ただ「わたしの願い」であるだけでは(「わたし」が生みだしたものであるときは)、それが実現される保証はどこにもありません。しかしそれが「わたしの願い」でありつつ、実は「ほとけの願い(本願)」であるとき、はじめてそれは「かくることなき」ものであり、「むなしからざる」ものであり、「壊することなき」ものであり、そして「かならずはたしとぐる」ものです。
 わたしが慙愧しているには違いないが、しかしわたしが慙愧の念を生みだしているのではなく、それはどこかからやってくるものであるように、わたしが願生しているには違いありませんが、しかしわたしが願生の念を生みだしているのではなく、それはほとけからやってきているのです。わたしが願っているに違いないのですが、その実、わたしは願われているからこそ、それは「かならずはたしとぐる」のです。

タグ:親鸞を読む
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