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あゝ夢幻にして真にあらず [『教行信証』精読2(その28)]

(11)あゝ夢幻にして真にあらず

 親鸞は念仏を讃える文としてこれを取り上げているに違いありませんが、この張掄の文には、伝統的な浄土教に特有のエートス、独特の匂いが色濃く立ちこめています。これを読みますと、たとえば隆寛の『一念多念分別事』(親鸞はこの書物を書き写して関東の弟子たちに送るととともに、『一念多念文意』という解説書を書いています)の冒頭部分が頭に浮びます。「無常のさかひ(境)は、むまれてあだなるかりのすがたなれば、かぜのまへのともし火を見ても、草のうへのつゆによそへても、いきのとどまり命のたへむことは、かしこきもおろかなるも、ひとりとしてのがるべきかたなし。このゆへにただいまにてもまなことぢはつるものならば、云々」。
 あるいは蓮如の有名な「白骨のおふみ」にも同じ匂いがあります。「されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、云々」。この浄土教特有のエートスは、張掄の文では「あゝ夢幻にして真にあらず、寿夭にしてたもちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり」というところに現れていますが、親鸞を読んでいていつも感じるのは、彼にはこのように無常を詠嘆する表現は見られないということです。親鸞はかなりの数の和讃をものしていますが、そのなかにもこのようなエートスを感じさせるものは一つとしてありません(吉本隆明はそれを敏感にかぎ取り、親鸞の和讃は「非詩的」であると述べています)。
 伝統的な浄土教(蓮如にも伝統的な浄土教のエートスが流れています)にあって親鸞にはないものは何でしょう。
 それは今生の無常と来生の常住を対比し、無常の今生を厭離し、常住の来生を欣求するという姿勢です。言うまでもありませんが、親鸞は「厭離穢土、欣求浄土」(これは源信『往生要集』の第1章と第2章のタイトルです)を否定するわけではありません。穢土を厭い、浄土を願うのは当たり前のことであり、煩悩を厭い、菩提を求めるのは浄土の教えの、いや仏教のイロハです。ただ、こちらに煩悩の穢土があり、あちらに菩提の浄土があると見て、こちらからあちらを仰ぎ見る姿勢をとらないということです。今生は煩悩の穢土であるとして否定し、来生に菩提の浄土を待ち望むのではないということです。

タグ:親鸞を読む
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