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能動と受動 [『教行信証』精読2(その30)]

(13)能動と受動

 国分功一郎氏の『中動態の世界』は刺激的な本で、さまざまな示唆を与えてくれますが、いまの問題を考える上でも大事なヒントが得られます。中動態とは何かをざっくりと整理しておきますと、インド=ヨーロッパ語族に属する古い言語(古代ギリシャ語やサンスクリット)において、能動態と受動態の対が現れるより前に、その起源として中動態とよばれる態があり、そこから能動態と受動態が生まれてきたというのです。そして中動態はいつしか消えてしまった。中動態が消えてしまった後に生きるぼくらは能動態と受動態の対しか知りませんから、何ごとも「する」か、さもなければ「される」と考えてしまうわけですが、さてこの対ではうまく説明できないことがいろいろある。
 著者はその一例として「かつあげ」を上げます。誰かに脅されて金を渡すとき、盗まれるのではなく自分で金を渡すのですから、その点では能動と言えますが、しかし自発的にではなく脅されて仕方なく渡すという意味では受動です。このような場合、「する」か「される」かのどちらかを決めるのは難しい。どちらもと言わざるをえません。あるいは昔見たドラマ「わたしは貝になりたい」の主人公は、上官から捕虜を銃剣で刺殺することを命じられますが、この場合も自分で銃剣を突き刺すわけですから、あくまで能動ですが、しかし上官の命令で止むを得ずしているという点では受動です。これも「する」のか「される」のか、どちらだと問われても答えに窮します。
 さて「能動と受動」の対は「自力と他力」の対と重なります。自力とは何ごとかを能動的にすることであり、他力は逆に何ごとかを受動的にされることです。そして普通は「するか、さもなければされる」と受け取られるように、「自力か、さもなければ他力」と「or」の関係でとらえられます。他力というのは自力ではないことであり、能動ではないこととされ、かくして他力本願はしばしば非難のことばとなります。しかし「能動と受動」が「or」の関係ばかりではなく「and」の関係ととらえなければならない場合があるように、「自力と他力」も「and」の場合があります。親鸞が「他力といふは、如来の本願力なり」というのは、そのような場合です。ぼくらは間違いなく自力の世界に生きていますが、それがそっくりそのまま本願他力の世界のなかのことです。

タグ:親鸞を読む
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