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弥陀の名号とは [『教行信証』精読2(その32)]

(15)弥陀の名号とは

 ここで「真応の身」と言われ、「慈悲海」と言われ、「誓願海」と言われ、「智慧海」と言われ、「法門海」と言われているのは、みな「ほとけのいのち」のことでしょう。「ほとけのいのち」は慈悲の海であり、誓願の海であり、智慧の海であり、そして真理の海であり、その海のなかに「わたしのいのち」は生きているのです。そして弥陀の名号とは「ほとけのいのち」の慈悲と誓願と智慧と真理のすべてを南無阿弥陀仏の六文字におさめたものに他なりません。仏名は「真応の身よりして建立せる」とか「慈悲海よりして建立せる」等々と言われるのはそのことです。
 南無阿弥陀仏とは「ほとけのいのち」の声であり、それは少し前のところで親鸞が明らかにしてくれたように「招喚の勅命」です。ひらたく言えば「そのまま帰っておいで」の声。「ほとけのいのち」から「そのまま帰っておいで」と呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。ぼくらは「ほとけのいのち」という海のなかに生きているにもかかわらず、そのことに気づかずに、ただひたすら「わたしのいのち」を生きていると思い、苦しんでいる。そこに「ほとけのいのち」から「帰っておいで」の声がかけられるのです。それは「もうすでに『ほとけのいのち』のなかにいるじゃないか。そのことに早く気づきなさい」という意味に他なりません。
 なぜ弥陀の名号か。この問いはさまざまなかたちで投げかけられます。ぼくを知る人がよく「どうして親鸞?」と問います。それにどう答えたらいいのか、いつも困ってしまうのですが、あえてひと言でいえば「ぼくは親鸞から“いのち”の声を聞いているだけです」ということです。別に親鸞でなくてもいいのです、そこから“いのち”の声が聞こえれば。でもぼくの場合、親鸞を読むことで、そこから“いのち”の声が聞こえてくるのです、「そのまま帰っておいで」と。南無阿弥陀仏は「そのまま帰っておいで」という“いのち”の声に他なりません。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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