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『教行信証』精読2(その33) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その33)]

          第3回 ひとり常途にことなる―元照など

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 これまで傍依の諸師、法照・憬興・張掄・慶文とつづいて引用されてきましたが、次は元照(がんじょう)の『観経義疏』からです。

 律宗の祖師、元照のいはく、「いはんやわが仏大慈、浄土を開示して慇懃(おんごん)にあまねく諸大乗(もろもろの大乗経典)を勧嘱(かんぞく、示して勧める)したまへり。目に見、耳に聞きて、ことに疑謗を生じて、みづから甘く沈溺(ちんにゃく)して、超昇をねがはず、如来説きて憐憫(れんびん)すべきもののためにしたまへり。まことにこの法のひとり常途(じょうず)に異なることを知らざるによりてなり。賢愚をえらばず、緇素(しそ、黒と白。黒衣の僧侶と白衣の俗人)をえらばず、修行の久近(くごん)を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」と。以上

 (現代語訳) 律宗の祖師、元照はこう言われます。いわんやわが釈迦如来は、大慈の心から浄土の教えを開いてくださり、丁寧に諸大乗経典のなかに示してお勧めくださいました。ところが人々はそれを見たり聞いたりしては疑いの心を起こし謗ったりして、迷いのなかに沈みこんだまま、浮びあがろうともしません。如来はこれをみて「哀れなるかな」と言われます。どうして人々が疑いの心を起こすかと言いますと、この教えは普通の法門とは大きく異なることを知らないからです。この教えは賢愚を選びません、僧俗を選びません、修行の長短を選びません、罪の軽重を選びません、ただただ信心一つが決定していることが往生の因となるのです。

 元照とは宋代の僧で、はじめ天台を学びますが、律宗に転じ一派をなし、多くの弟子を育てます。しかし、晩年に病を得たことを機に浄土教に帰することになり、『観経義疏』、『阿弥陀経義疏』を著します。元照を含め、これまで出てきました傍依の諸師はみな他宗派の人ですが(居士の張掄をのぞき、法照は律宗、憬興は法相宗、慶文は天台宗)、最後は浄土教に落ちついているところをみますと、浄土の教えには何かそのようにさせる力があると言わざるをえません。

タグ:親鸞を読む
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