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信心がそのまま往生 [『教行信証』精読2(その35)]

(3)信心がそのまま往生

 自力が自力でありながら、そっくりそのまま他力のなかであるとしますと、そのことを信じるのもまた他力ということになります。
 すべては他力のなかであると言いながら、そうと信じるのは自力であるというのでは平仄があいません。信じるのはたしかにわたしです。わたしが信じなければ信じることの幕があきません。でもわたしが信じるのではない。何を言っているのだ、気は確かかと言われるかもしれません。言い直しましょう。本願を信じることは「わたしにおいて」起こります。それは天地がひっくり返っても確かです。でも「わたしが」信心を起こすのではありません、気づいたら「わたしにおいて」すでに起っているのです。
 さて問題は「信心が往生の因」です。気づいたらすでに「わたしにおいて」起っている信心が往生の因であるというのはどういうことでしょう。
 気づいたときにはすでに信心が起こっているのですから、そのときには往生もまたすでに起こっているということです。原因としての信心があり、しかるのちに結果としての往生があるのではなく、信心がそのまま往生であるということです。親鸞が手紙のなかで「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と言っているのはその意味に違いありません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると信じたとき、もう往生がはじまっているのです。
 「賢愚をえらばず、緇素をえらばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽をとはず、ただ決定の信心」さえあれば、そのときにはもう往生できているのです。浄土の教えが「常途にことなる」とはそういうことです。信心を得られたそのときにもう往生がはじまっているのですから、それ以上なにを望むことがあるでしょう。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(同)です。

タグ:親鸞を読む
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