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『教行信証』精読2(その36) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読2(その36)]

(4)本文2

 元照の『観経義疏』からの引用がつづきます。

 またいはく、「いま浄土の諸経にならびに(ことごとく)魔をいはず。すなはち知んぬ、この法に魔なきこと明(あき)らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。いまためにつぶさにかの問を引きていはく、あるいは人ありていはく、臨終に仏・菩薩の光を放ち、台(うてな)を持したまへるを見たてまつり、天楽異香(いきょう)来迎往生す。ならびにこれ魔事なりと。この説いかんぞや。答へていはく、首楞厳(しゅりょうごん、『首楞厳経』のこと。首楞厳三昧を説く)によりて三昧を修習(しゅじゅう)することあり、あるいは陰魔(おんま、五陰魔のこと。五陰は五蘊と同じで、人間を構成する色・受・想・行・識の五要素)を発動す。魔訶衍論(まかえんろん、馬鳴の『大乗起信論』)によりて三昧を修習することあり。あるいは外魔(天魔)を発動(ほつどう)す。止観論(天台智顗の『魔訶止観』)によりて三昧を修習することあり、あるひは時魅(昼夜十二時に、男女禽獣の姿を取り修行者を悩ます)を発動す。これらならびにこれ禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり。さだめて撃発(ぎゃくほつ)をかぶるがゆゑにこの事を現ず。もしよくあきらかにしりておのおの対治を用ゐれば、すなはちよく除遣せしむ。もし聖の解(しょうのさとり、己を聖者とうぬぼれること)をなせば、みな魔障をかぶるなりと。上にこの方(この世界)の入道(さとりを得る)をあかす、すなはち魔事を発す。

 (現代語訳) また元照の『観経義疏』にこうあります。浄土の諸経典はどれも魔については述べられていません。ここから浄土の教えに魔がないことは明らかです。山陰の慶文法師は「正信法門」にそのことを詳しく説いていますので、いまその中の問答を引いてみましょう。ある人は、臨終に仏菩薩がひかりをはなちながら台を持ち、天の音楽が響き、よき香りが漂うなかを来迎するのを見るというのは、魔の仕業ではないかと言いますが、この考えはどうでしょう。お答えします。首楞厳三昧を修めるときには、五蘊から魔が現れることがありますし、大乗起信論によって三昧を修めるときには、天魔が現れることがあります。また魔訶止観によって三昧を修めるときには時刻によりかわるがわる魔が現れることがあり、これらはみな自力で禅定を修めようとするところに魔が現れる種があり、それが実際に禅定のなかに出てくるということです。そのわけをよくわきまえて対処すれば、魔を制することができます。しかし自分は聖者であるとうぬぼれたりすれば、みな魔障を蒙ります。以上はこの世界において自力で悟りを得ようとする場合で、かならず魔障があります。

タグ:親鸞を読む
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