SSブログ
『教行信証』精読2(その37) ブログトップ

魔の仕業 [『教行信証』精読2(その37)]

(5)魔の仕業

 ここで話題となっている魔とは修行中の行者に現れてはその妨げをなす一種の幻覚をさします。引用文のなかに、観経に説かれる臨終の来迎の超自然的なありようは魔の仕業ではないかという問いが出てきますが、この言い分は一理あると言わなければなりません。臨終という非常のときにあたり特別な幻覚が現れるのは「さもありなん」と頷けるところがあります。そして浄土の教えには、臨終の来迎の場面に限らず、神秘的な記述が満ち満ちていますが(極楽浄土のさまざまな荘厳など)、それらも魔のなせるわざではないかという疑いが起ってくるかもしれません。
 忘れられない思い出があります。高校の社会科教師たちの研修会で親鸞の宗教について語ってくれと言われ、南無阿弥陀仏はわれらが称える(称名)より前にむこうから聞こえてくるもの(聞名)という趣旨の話をしました。ぼくが具体例として語ったのは、散歩道で見知らぬ方から思いがけず「こんにちは」の声をかけてもらったのが、南無阿弥陀仏と聞こえたという自分のささやかな経験ですが、そのとき一人の先生が質問に立たれました、「南無阿弥陀仏と聞こえたのは一種の幻覚ではないかと言われたら、どう答えられますか」と。ぼくは答えに窮してしまいました。
 なるほど、ある方の口から出た「こんにちは」が南無阿弥陀仏と聞こえたなどと言われたら、それは幻聴ではないかと疑うのが普通です。でもぼくとしてはそれは幻聴でも何でもありません。その方が「こんにちは」と言っているのに、その声そのものが南無阿弥陀仏と聞こえたとしたら、これは幻聴でしょう。でも「こんにちは」の声はちゃんと「こんにちは」と聞こえているのです。ただ、その「こんにちは」を通して南無阿弥陀仏の声が聞こえてきた。さてしかしこの微妙な違いをどう説明すればいいか、ぼくはその場に立ち尽くすのみでした。
 先の文にはつづきがあります。それを読んで幻聴(魔)とどう違うかについて考えたいと思います。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その37) ブログトップ