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『教行信証』精読2(その40) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その40)]

(8)本文4

 元照の『観経義疏』につづいて、同じく元照『阿弥陀経義疏』からの引用です。

 またいはく、「一乗の極唱(ごくしょう、至極の教え)、終帰(最後のよりどころ)をことごとく楽邦(浄土)を指す。万行の円修、最勝をひとり果号(名号)にゆずる。まことにもつて因より願を建つ。志をとり行を窮め、塵點劫(じんてんごう)をへて済衆の仁(衆生済度の慈悲心)をいだけり。芥子(けし)の地も捨身の処にあらざることなし。悲智六度(六波羅蜜のうち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の慈悲と、最後の智慧とに分けて悲智六度という)、摂化してもつてのこすことなし。内外の両財(自分の身を内財、持ち物を外財とする)、求むるに随うてかならず応ず。機と縁と熟し、行満じ功なり、一時にまどかに三身(法身・報身・応身)を証す。万徳すべて四字(阿弥陀仏の四字)にあらはる」と。以上

 (現代語訳) 一乗の至極の教え(法華経や華厳経の教え)も、最終的にはみな浄土の教えを指し示しています。また、どんな行も、弥陀の名号にまさるものはありません。阿弥陀仏は因位において願をたて、志をいだいて行をきわめ、はかりしれない時間をへて衆生を救おうという心を持ち続けられました。そして芥子粒ほどの地でも自らの身を捨てられなかったところはありません。六波羅蜜の行により、衆生をすべておさめ取られ、持てるものはみな求めに応じてお与えくださいます。そうして機が熟し縁が熟して、行が満ち功徳が成就し、一時に法・報・応の三身をまどかに得られました。かくしてすべての功徳は阿弥陀仏の四字に現れているのです。

 先ほどのつづきで他力と魔障についてもう少し考えたいと思います。この文では、法蔵菩薩が五劫の思惟と兆歳永劫の修行により、その誓願が成就して阿弥陀仏となられたと語られます。だから弥陀の名号にすべての功徳がおさめられているのだと。ここに浄土の教えの要諦が語られていますが、これはしかし見方によってはすべて魔のなせるわざであると言えなくもありません。

タグ:親鸞を読む
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