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幻影と物語 [『教行信証』精読2(その41)]

(9)幻影と物語

 むかし法蔵菩薩という人がいて、一切衆生を救おうという壮大な誓願をたてた、そしてそれが成就したことで阿弥陀仏とその浄土が成就したという話だが、そんなことが現実にあったなどとどうして信じられようか。それは誰かの頭に魔が差し、壮大な幻影を造りだしたものに他ならないと言う人がいても何の不思議もありません。実際、これは物語なのですから。
 さてここで大事なことは、幻影と物語をきっちり区別することです。
 幻影は、それを見ている人にとっては現実そのもので、ありもしないことが現にあると見ているのです。しかし物語は、それを語る人にとっても物語であるのは当然であり、ありもしないことを語っているとはっきり自覚しています。さて、幻影を見ている人が、幻影であるにもかかわらず、それを現実として語るのは仕方ないことですが、これは物語だと自覚した上で物語を語るのはどうしてでしょう。おとぎ話や小説の場合はその理由がはっきりしています。フィクションを楽しむためです。人間には現実にはないことを想像し物語を作って楽しむという特殊な能力があります。それはいいとしまして、問題は法蔵菩薩の物語です。これは娯楽でないことは明らかですが、ではいったい何か。
 物語としてしか語ることができない現実があるということです。「こんにちは」という声を通して「帰っておいで」が聞こえたことは幻聴ではありません、紛れもない事実です。ただ、それを人に語ろうとするとき、どうしても物語的にならざるをえないのです。「宇宙からの暗号を傍受する」という言い方をしたこともありますが、すでにどこかSFめいています。現実ばなれした印象を与えてしまうかもしれませんが、しかしだからといって幻聴などではなく、ずしりと重い現実です。
 「宇宙からの暗号」を壮大な物語にしたものが浄土の経典に説かれていて、宇宙にあたるのが阿弥陀仏であり、暗号が名号です。

タグ:親鸞を読む
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