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『教行信証』精読2(その43) ブログトップ

本文6 [『教行信証』精読2(その43)]

(11)本文6

 さらに『阿弥陀経義疏』からの引用がつづきます。

 またいはく、「正念のなかに、凡そ人の臨終は識神(しきじん、こころ)に主なし。善悪の業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起し、あるいは邪見を起し、あるいは繫恋(けれん、愛着)を生じ、あるひは猖狂(しょうきょう)悪相を発せん。もつぱらみな顛倒の因と名づくるにあらずや。さきに仏を誦して罪滅し、障除こり、浄業うちに薫じ、慈光ほかに摂して、苦をまぬかれ楽を得ること、一刹那のあひだなり。下の文に生をすすむ、その利ここにあり」と。以上

 (現代語訳) またこう言われます。臨終の正念についてですが、およそ臨終において人のこころは主のいない空き家のようなもので、これまでの善悪の業の結果が現れざるをえません。悪い思いを抱いたり、邪な考えをもったり、あるいは愛着の思いに苦しんだり、さらには狂ったような悪相を示すこともあるでしょう。これらはみな心が顚倒してしまっているということです。しかし前々から名号を称えて罪障に煩わされなくなっていますと、こころの内は名号の功徳で温もり、外からは弥陀の光明に照らされていますから、一刹那の間に苦をまぬかれ楽を得ることができるのです。阿弥陀経の下の文に浄土往生を勧めているのは、この利益があるからです。

 この文は臨終の正念について述べています。名号を「みみにきき、くちに誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入」して「ながく仏種」となるのでした。そしてそのことが臨終に際して本領を発揮します。もはや「悪念をおこし、あるひは邪見をおこし、あるひは繫恋を生じ、あるひは猖狂悪相を発せしむ」ことはなくなるというのです。臨終に正念を失うのではないかというのは昔も今も変わらず大きな不安でしょう。それまでは正気を保って生きてきたのに、死を前にして正気を失ってしまい、見苦しい姿を見せてしまうのではないかと心配になる。しかし、名号を「みみにきき、くちに誦する」ことで、その心配はなくなるというのです。

タグ:親鸞を読む
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